月さえも眠る夜〜闇をいだく天使〜

19.虚無の中の夢



その世界は無の空間である。いや、無であるはずの空間、と言うべきか。
何故ならそこに、明らかに存在するものがあった。
黒いサクリア。
聖地ではそう呼ばれるもの。
女王の司るサクリアを侵して宇宙の均衡を乱し、人の心さえも狂わせる。

憎しみ、怒り、欲望、嫉妬、その他諸々の『負の感情』と言われるものが渦を巻き、形作る気配。

でも。
アンジェリークは思う。
それらは本当に悪なのかしら?いままで、昇華の時にこんなこと、考えもしなかったけれど。
『生きている』ならば、あまりにも、あまりにも当たり前の感情の数々。
もしもしれらが本当に悪と言うのなら人は。

人を恋うることさえも罪と言わなければいけない。

あなたたちも、望んでこうなったわけではないでしょう?
黒く渦巻く大きな意志に語りかける。
かつては花であり、樹であり、動物であり、そして人であったであろう様々な生命の意志。
それぞれに愛すべきものがあり、帰りたい場所があったはず。
黒い色 ―― 闇にも似てる ―― それは憎しみや、怒りの色じゃない。
深い、深い、悲しみの色。
負の感情に負けてしまった弱い心の、悲しみの色。
弱ささえ、「悪」ではないというのに。
でも、私は負けない。
負けるわけにいかない。
私には、帰らなければいけない場所があるから。
意を決し、黒い意志に向かい合う。

「さあ、陛下にお借りしたこのサクリアで、どうかこの魂達に導きを!!」

アンジェリークの両手から白い光がほとばしり、黒い渦をつかみ飲み込んでいく。
よしっ!
アンジェリークが思った一瞬、それは逆転し白い光は黒い渦に吸い込まれてしまった。
!!
だめ、相手が大きすぎる、いつもの手が通じない。
そして、サクリアを吸い込み、さらに大きく変化した黒い渦はアンジェリークの周囲をまるで深い水底のようにねっとりと埋め尽くす。
彼女の意識は静かに、遠のいた――


ここはどこ?
なにもないわ
ひかりも、やみもない、なにもないばしょ
かえらなきゃ。ここにいちゃいけない
かえらなきゃ。
どこへ?
わからない。でも、かえらなきゃ。

なにも無い空間。
自分が誰なのかさえはっきりとわからない。
けれど繰り返し繰り返し、「かえらなきゃ」と自分が自分に語り掛ける。
幾度目かに「かえらなきゃ」と思ったその時、いきなり彼女の心に痛みが走った。
何故?
悲しい、痛い、寂しい、苦しい、切ない。
何故?
なんでこんな思いしなくてはいけないの?
この感情は、なに?
ふと、誰かの声 ―― 自分の声かもしれない ―― が心を過ぎる。

カエッタラ オナジオモイガマッテイル
イキテイテモ ツライ ダケダ

彼女はその声に何かを思い出したような気がした。
そう、ずっと、辛かったのは覚えてる。
帰っても、また、同じ想いをするのなら。
かえらなくてもいいかな。
ずっとこのまま。
やみにもにた、このなにもないくうかんにゆられて。
意識が、朦朧としてきた彼女はついに次の言葉を心の内へと浮かばせる。

『コノママ シンデシマッテモイイ』

その言葉を待っていたかのように黒い意識の固まりが、ついにアンジェリークの意識を取り込むべく襲いかかった。
しまった!
わざと、意識を負の方向へ導かれてしまったんだ!
そう思った時はもう遅い。
目前にせまった黒い意識。
もう、だめ!!
覚悟を決めかけたその時、彼女を守るように、なにかが立ちはだかったような気がした。
それは、人のようにも思える。
ダークグレイの短い髪、グレイの優しい瞳。
彼の口が動く。
『いきなさい』
と。

「?!セリ……っ」
名を呼ぶ間もなく、今度は背後から温かい気配を感じる。
ロザリア?
友人に良く似た『気』にそう思う。
だが、そんなわけはない。
彼女が来れないからこそ、自分がここにいるのだ。
では、いったい、誰?
ふわり。
白い羽根が彼女の頬に当たった気がした。
そして、一瞬にしてどこかに運ばれるような不思議な感覚の後 ――


◇「19―2・虚無の中の夢(2)」へ ◇
◇「彩雲の本棚」へ ◇
◇「月さえも眠る夜・闇をいだく天使――目次」へ ◇